2018年4月から始まったNHKの朝ドラを初めて全部視聴しました。
内容については好き・嫌いが分かれるようでしたが、わたしはとても好きでした。
ついでにいうと、北川悦吏子さんの作品を1話~最終話まで視聴したのは初めてかも。
その朝ドラで描かれていた、あるシーンがちょっと印象的でした。
というのも、たまたまその数週間前に見た映画でも同様のテーマが描かれ、朝ドラとは真逆の対応をしていたからです。
朝ドラでは、どのシーンかというと、主人公の子ども、小学1年生の花野(かんちゃん)が学校でクラスメートから、からかわれていじめられていることを主人公の鈴愛(すずめ)が、先生から聞かされる。
それを聞いて、鈴愛がかんちゃんと家で話をしているシーンです。
鈴愛は、かんちゃんに転校することを提案します。「そんないじわるされながら通う必要はない」と。
花野が「かんちゃん、弱虫じゃない?逃げていいの?」と聞いても
鈴愛は
「かんちゃん、あなたは逃げるのではない、正しい場所に行くのです。そして、する必要のない闘いだ、だから場所を変える」「手っ取り早い。わかる?そんな子がいるところに通う必要がない」
とキッパリ断言。
「今回のことは20年後には必ず笑い話、というか、感性の豊かな子になる、自慢にさえなります」「だから全然気に病む必要はない」と、すべてを肯定的に考えられる言葉をかけています。
このシーンを見た直後の感想は、「現代的だなー」くらいの感じでしたが、あとでふと、先日Amazonプライムでみた邦画を思い出したんです。
その映画はこちら。
ちょっとネタバレになってしまったらすみません。
この映画は余命2ヶ月の母・双葉が、死ぬまでに絶対にやっておくべきことを決めて実行する。そのなかで描かれる娘との向き合い方や、家族のあり方、生きるということ、などいろいろ考えさせられるストーリーです。ラストは若干、ホラー?な感じもありますが、おすすめの映画です。
その、死ぬまでに絶対やっておくべきことの中に「気の優しい娘を独り立ちさせる」という項目があります。
具体的には、この映画でも中学1年の娘・安澄は学校で、クラスメートからからかわれて、いじめられています。制服を汚されたり、隠されたり。
「学校に行きたくない」という娘を無理やり学校に行かせる母・双葉。
制服を隠されても、安澄に体操服を着せ(靴はローファー(!))て、とにかく家から送り出す。
ひとによっては、「やりすぎな対応」「子どもがかわいそう」と思われるような、母・双葉の態度です。
わたしもこのシーンを見たときは「わりと強引だなぁ。かえって逆効果では・・」と思いました。
いじめに関しては、ひとことで何がどうと言えるような簡単な問題ではないと思います。
わたしには子どもはいないので、親の立場で考えるというのも想像でしかありません。
しかし、「いじめに立ち向かうほうがいい」というような主張をするひとの中には、その人自身が、”環境を変える”よりも”立ち向かう”ほうがストレスがないタイプという可能性もあるのでは・・と、なんとなく思いました。
さきほどのドラマと映画、相対する2つの描き方を見て、きっと、わたしが親なら前者の朝ドラのような対応を子どもに投げかけるだろう。しかし、わたし自身は確実に、後者のほうを選ぶ性格です。
というか、選んできた、と言ったほうが正しいか。
わたしは小学生のときにクラスメートから、何度か、からかわれた経験があります。(ちなみに、わたしの中では”いじめ”とは思っていない)
わたしの育った田舎は、人口が1万人にも満たない小さな村でした。いまは市町村合併によって住所は「町」になっていますが、実態はあまり変わっていない、田舎の村。
村に駅は無く、村の子どものほとんどは、保育園から中学校までずっと一緒です。一村一校の世界。
家庭の事情で、わたしは村の保育園には行かずに市街の幼稚園に通っていたため、小学校からみんなと同じ村の学校に通うことになりました。
つまり、他の同級生はみんな保育園から知っていて仲良しですが、わたしは途中から入ってきた知らない子ども。
近所の同級生は仲良くしてくれたし、入学当初もそれなりにクラスに溶け込んでいたと思います。
ただ、ときどき違うクラスの子どもは、わたしに対してちょっといじわるな言葉をかけたり、からかったりする子がいました。
わたしはそういうとき、「やめて」とも言わず、ただ、黙って相手を見る、言われたことは無視する、意に介さない。という態度をしていました。
親や先生には言わない、言いたくない。自分でなんとかしたい。でも、相手を刺激したくない、ひるみたくない。という気持ちがありました。
完全に本能的なものだと思います。
また、女子グループあるある、かもしれませんが、仲良かった子たちがなぜか急に無視したり、仲間はずれにしたりする。ということも小中学生の間に何度かありました。
そもそも群れること自体があまり好きではなかったけど、一緒に学校に行ったり、部活をやったりする友達はいました。その友達が急に口を聞いてくれない。先に学校に行ってしまう。
最初は意味がわからなかったけど、これも相手に「どうしてなの?」と聞くでもなく、ただ、いつもと同じように過ごす。必要なことがあって話しをすることがあっても、無視されますが構わず話します。伝えることは伝えたぞ、と。
こういう対応は、別に自分のなかで「こうしなきゃいけない」と思っていたわけではありません。
本能的な感じで、むしろ「わたしはこういうふうにしたい」という気持ちのほうが強かった。
ひとこで言うと、自分から食い下がるとか立ち去るとかは好きじゃなくて、立ち向かいたいタイプなんです。なにごとも。
「つらいことから逃げるのは良くない」と洗脳されていたわけでもありません。
単純に、引き下がるということに強烈なストレスを感じるので、立ち向かうほうが気持ちはラクなんです。
大人になるにつれ、何にでも噛み付いたり、引かなかったりということは逆に疲れるだけだな・・と徐々に学んできているので、人とのコミュニケーションについては、いまは理性が感情を上回り、だいぶおとなしくなっていますが。
でも、基本的には、何かを「諦める・止める」ことよりも、「チャレンジする・続ける」ことが好きなのは確かです。
わたしのような性格のタイプは「つらいことでも自分でがんばって克服した!」という、ある種の成功体験のようなものをもし積んでいると、「立ち去るよりも立ち向かえ!」という意見に、つい寄ってしまうこともあるのではないかな。
ひとからアドバイスや意見をもらうとき、助言をしてくれるその人自身の性格が反映されてしまうのは避けられないと思います。
逆にひとに何か相談されたときには、どうするのがいいのかを考えるとき、自分の経験は一旦外して考えるのがいいこともあるかもしれない。経験の裏には必ず自分ならではの性格の好みが反映されていると思うから。
なんとなくそんなことが、ふと過ったので、つらつらと書いてみました。